探訪⑤「なにわの渡し舟」 |
10月2日(金)は、5回目の探訪。
テーマは、< なにわの渡し舟 >
昨夜来の暴風雨が嘘のように今日の天候は、
おだやかな秋晴れに恵まれ探訪日和の一日でした。
戦前~終戦直後の十数年の間、交通の要衝であった南海・汐見橋駅に集合。
はじめに、沖本先生から本日の探訪趣旨は
「関東大震災直後の大阪と戦後復興期の大阪は
繊維&鉄鋼産業を中心に日本経済の屋台骨を
支えた大・大阪時代であった、
その足跡を大正区で見て行く」との説明があった。
汐見橋線の沿線
往時は繊維や鉄鋼の製品を積んだ貨物列車が頻繁に行き来していた。
津守駅前の日紡(現在のユニチカ工場跡(公園)で、
大阪に渡船場が8つもあるのは、
工場を湾岸部に造ったので、
貨物船を通すには橋(当時の橋は海上髙が低い)が
邪魔になるからであるとの事前説明を受けた。
落合上渡船場
木津川と三軒家川の合流地点にあり、
西成区北津守と大正区千島を結んでいる。
利用者は1日平均5百人余(大阪市港湾局データ)。
傍らに木津川水門がある。
これは台風の高潮対策で、高さ4Mの高波に耐えられるが、
大津波には耐えられない。
昭和山
昭和山は大阪万博開催前の地下鉄拡張工事最盛期の残土で造成され、高さ33Mの市内で2番目に高い人工の山であり、大正区住民が洪水時の避難地でもある。
頂上で、なみはや大橋や木津川飛行場跡などを眺望した。
下山した公園で、大正区が生んだロスアンゼルス五輪の金メダリスト具志堅幸司の碑文を見学(体操の個人総合と吊り輪で2個の金メダル)。
大正区は四分の一の方が沖縄出身者で、彼もそうである。
大正内港のはしけ桟橋
現在のはしけの原型は昭和50年に整備され、瀬戸内海の砂や九州から石炭、鉄鉱石のはしけとして利用されたようである。昭和の初期は材木の集積場であったようである。
千歳渡船場と2代目千歳橋
大阪港復興事業の一つとして1957年(昭和32年)大正区の内港工事を行った際、初代千歳橋(鶴町~新千歳町)は撤去され、その代替として、以降鶴町3丁目と北恩加島2丁目間を渡船が運行されており、一日平均750人(大阪市港湾局データ)が利用している。2003年に開通した2代目千歳橋(鶴町~北恩加島間)は海面からの高さが28メートルあり、歩行者や自転車の道も建設されたにも拘らず利用には不便なことから、渡船は橋開通後も存続されている。
木津河口遠見番所跡
当地はかつて姫島と呼ばれていた。中村勘助が、1610年に豊臣家のために軍船係船所や船着場の整備等を行い、その功により勘助島と名付けられた。その後、1708年に幕府が木津川口遠見番所を当地に設けると諸国の船で賑わって木津川は大坂経済を支える大動脈となっていた。
安政大津碑
安政元年(1854)11月4日・5日に発生した地震と、
それに伴う津波によって犠牲となった人々の慰霊と、後世への戒めを語り継ぐことを目的として建てられた。
勘助島渡し碑
大浪橋のたもとにあり、正面に「わたし 勘助島」。
右面に「すぐちかみちなんば今宮天王寺住吉 あみだ池 道頓堀」といった地名が刻まれているようだがが、相当削れている。
かつての渡し船の場所で、勘助島と難波島を繋いでいた。
上八坂神社
大正区三軒家東に鎮座する神社。下之宮の八阪神社と区別して上の宮、上のやさかさんと呼ばれる。
1647年、勘助島の開拓者・中村勘助が新田開発の鎮守として京の八坂神社分霊を丸島に勧請し、建立したといわれている。
中村勘助は天正14年(1586)相模で生まれで土木技術者。慶長1 5年(1610)に木津村に移住。私財を投じて堤防を築き、新田を拓いた功績で勘助島と名づけられた。さらに木津川開削にも係り、大阪の海運の基礎を築いた。寛永18年(1641)の大飢饉では農民と一緒に蔵破りを決行。自らの命をなげうって人々を救った。一時は死罪が決まったが、庶民の助命嘆願が絶えず勘助島に島流しに。勘助島は流島だったのです。
( 今回の記事投稿者、4班M・K氏の感想です。↓ )
大阪の産業基盤の出発点であった「大正区」を初めて訪れ感慨に浸った。重厚長大の再来は望むべくもなく、大阪の再興をはかるには、どのような産業基盤を創造していくべきか、知恵者の登場が待たれる。